むかしむかしのお話。英雄ヤマトタケルの子、仲哀天皇は、強く美しい神功皇后と夫婦になり、香椎でひとときを過ごすことになりました。
ある日、仲哀天皇は神の怒りに触れ亡くなってしまいます。神功皇后は悲しみをこらえて、天皇のかわりに男装をして海を行き交い、そして愛する夫のために香椎にほこらを建てました。
その後、ご夫婦に男の子が生まれます。生まれつき弓の名手であったこの男の子は、おじいさんとお母さんの血を受け継いでたくさんの勝負に勝ち、お父さんの遺志を引き継いで応神天皇となりました。
武芸にすぐれ、日本文化の基礎を築いたこの天皇は、いつしか八幡神と呼ばれ、全国の八幡宮という神社の神さまになります。
そして時は流れ、愛する夫のそばにいたいと願った神功皇后のお宮も、香椎の地に築かれました。
こうしてご夫婦は再びご一緒になり、この地は香椎宮と呼ばれるようになりました。愛つなぐ、香椎宮。あなたも大事な人々の幸せを祈って、愛をつないでください。
香椎宮は仲哀天皇九年(200)、神功皇后躬ら祠を建て、仲哀天皇の神霊を祀給うたのが起源であります。
神功皇后の宮は元正天皇の養老七年(723)に皇后御自身の御神託により、朝廷が九州に詔して社殿の造営を創め聖武天皇の神亀元年(724)に竣工したもので、此の両宮を併せて香椎廟と称しました。
明治以来には官幣大社香椎宮、戦後は香椎宮と称しております。
仲哀天皇は筑紫国へと下られ、橿日宮に坐しまして内政外交に御精励され、国造りの礎を築かれました。その御遺志を継がれた神功皇后は、神祇の教をうけ、自ら国内を平定せられ、更に船団を率いて三韓御駐輦の壮挙を果たされ、初めて国際国家としての日本の地位を確立なさいました。
神功皇后は三韓御平定の際、御懐妊の身ながら、石を懐に抱いて出征し、戻られて無事、御子応神天皇を御出産された事から聖母大明神とも信仰され安産の霊験あらたかです。応神天皇の御代において日本は国際国家として益々発展し、後の我が国の礎となりました。また住吉大神は、御渡海に際して神功皇后に御神託を授け、交通安全・海上安全の守護を与えました。
仲哀天皇
神功皇后